瞑想3:フェルトセンス体の声とは?
- 達也 早崎
- 6月30日
- 読了時間: 4分

「この感覚には、名前があった。」
〜フェルトセンスという、自分自身との対話〜
前回のブログでは、瞑想を続ける中で、普段は気づくことのなかった身体の「重さ」と静かに向き合った体験を書きました。
私はその時、その感覚が何なのか分かりませんでした。
ただ、不思議と「何か大切なものに触れている」という感覚だけはありました。
その後、改めて心理学を振り返る中で、
「ああ、この体験には名前があったんだ。」
そう感じました。
その名前が、フェルトセンス(Felt Sense)です。
フェルトセンスとは何でしょうか。
フェルトセンスとは、心理学者であり哲学者でもあったユージン・ジェンドリンが提唱した概念です。
簡単に言えば、まだ言葉になっていない身体全体の感覚です。
私たちは普段、
「悲しい」
「嬉しい」
「怒っている」
と、感情を言葉で表現します。
しかし実際には、その言葉になる前に、
胸が締め付けられる感じ。
喉につかえる感じ。
お腹が重くなる感じ。
肩に何かが乗っているような感じ。
そんな、「何とも言えない身体の感覚」を経験していることがあります。
それが「フェルトセンス」です。
身体は、言葉より先に知っている
医療の現場でも、
「なんとなく嫌な予感がする。」
「言葉では説明できないけれど違和感がある。」
そんな経験をすることがあります。
あとから振り返ると、
患者さんの変化に身体は気付いていた。
そんなことも少なくありません。
これは特別な能力ではありません。
私たちの身体は、
言葉になるより先に、
たくさんの情報を受け取っているからです。
そして、それは患者さんに対してだけではありません。
自分自身に対しても同じなのです。
私は、その声を聞いていませんでした。
前回のブログで書いた、
身体を押さえつけるような重たい感覚。
あの感覚を私は長い間、
感じないようにしていたのかもしれません。
仕事があり。
責任があり。
やりたいこともあります。
だから、
「疲れている」
という身体の声より、
「まだ頑張れる」
という頭の声を優先していました。
もちろん、それが必要な時もあります。
医療の現場では、その頑張りが誰かの命を支えることもあります。
けれど、その状態が何か月も続くと、
身体の声はどんどん小さくなっていきます。
いや、
正確には違います。
身体の声はずっと出し続けているのに、
私たちが聞かなくなってしまうのです。
フェルトセンスは、「答え」ではありません。
ここで大切なのは、
フェルトセンスは診断ではないということです。
身体が重いから、
「これは○○だ。」
そう決めつけるものではありません。
身体の感覚は、
あくまで自分自身を理解するための入り口です。
「今、私はこんな感覚を感じている。」
「その感覚は、どんな質感だろう。」
「何か伝えたいことがあるのだろうか。」
そんなふうに静かに寄り添ってみる。
すると、不思議なことに、
身体の感覚が少しずつ変化したり、
今まで気付かなかった気持ちや価値観が見えてきたりすることがあります。
心理療法では、このように身体の感覚へ丁寧に耳を傾けることが、自己理解や心理的な変化につながることが知られています。
医療メンターが大切にしたいこと
医療の現場では、
患者さんの声をよく聴くことが大切だと言われます。
私はそれと同じくらい、
自分自身の声を聴くことも大切だと思っています。
支援者は、
誰かの苦しみには敏感です。
小さな表情の変化にも気付きます。
声のトーンにも気付きます。
しかし、自分自身の疲れや苦しさには驚くほど鈍感になってしまうことがあります。
だからこそ、
私は瞑想やフェルトセンスを感じる時間を、
「自分を甘やかす時間」ではなく、
支援者としての感性を整える時間
として取り組んでみるのもいいのではないかと思います。
身体は、敵ではありません。
疲労も、
不安も、
緊張も、
身体は私たちを困らせるために教えてくれているわけではありません。
「少し休みませんか。」
「少し立ち止まりませんか。」
そんな小さなメッセージを送り続けてくれているのかもしれません。
その声は、とても静かです。
忙しい毎日の中では、簡単にかき消されてしまいます。
だから私は、ときどき立ち止まり、呼吸を感じ、自分の身体へ問いかける時間を持ちたいと思っています。
「今、私は何を感じているだろう。」
その問いに、すぐ答えは返ってこないかもしれません。
でも、その問いを持ち続けること自体が、自分自身との対話の始まりなのだと思います。
医療メンター協会では、こうした「自分自身とのつながり」を大切にしながら、支援者が長く、健やかに人を支え続けられる在り方を探究していきたいと考えています。
医療メンター協会 メンターコーチ 早崎達也 2026年6月



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